美しい国の言葉。感情論編

ふと思った。英語教育は生まれた時からやれ。日本語教育は生まれる前からやれ。
日本語をまともに使えないアホな子どもが増えると言う理由は、英語教育を推し進めるからではない。親がアホで子どもがアホで政府がアホだから、子どもがアホになる確率が増えるのだ。
エチオピアとか、パキスタンみたいな貧しい国の、10歳くらいの子どもと僕は英語で普通に会話をしていたのだ。それを思うと、日本語しか話すようにできていない日本の教育はどうかと思うのだ。外国語は英語が絶対ではない。けれど、この島国のなかでしか使えない言語に頼るしかない実体がいいとは思わないのだ。話せる英語、英語を聴ける事、使える英語のための教育は、子どもの時にしか出来ない。僕達が、アホなりにも日本語を使えるのは、日本語の中で育ったからだ。美しい言葉を使うための教育は、もう少し成長してからでも僕はいいと思う。
奇麗な発音、LとR聴きわけ、話しわける力は、大人になってからの努力では難しい。だったら、土台をつくっておいてくれないか。後から努力する人のために。英語が好きな人のために。カルロスゴーンだって、下手な発音の英語で努力してるんだ。学校教育以外でも、社会全体をグローバルにする必要があるんだ。日本の文化をないがしろにするというわけではないが。中には一度も海外に出ずに通訳になる人もいるが、それは特別な努力が出来る人だ。万人がそうではない。僕は、エチオピアの子ども達が日本の子ども達以上に勉強しているとは一概に考えられない。教育環境、社会環境の問題だ。
大体にして、奇麗な日本語を使う方法なんて学校で習ったか?敬語の種類分けなんかは習うとしても、敬語のちゃんとした使い方なんて、親だったり、部活だったり、バイト先なんかで覚えるんじゃないのか?ファミレス敬語とかが問題になってたけど、それは学校教育なんて全然関係ないだろが。社会がおかしいんだろが。そういう風に日本語が進化してるんだろが。(進化とはいい方向に進むと言う意味ではなく、自然に淘汰されて変化して行くと言うことだ)
てか、日本語か英語か、みたいな発想が馬鹿馬鹿しい。日本語だけでいいわけないだろ。奇麗な日本語が話せない事がいいわけないだろ。両方出来るようにする方法を考えろボケナスが!お前なんか猫のウンコ踏め!