短編小説、ロライマ山 5/7

イクチオステガの気持ちで

朝起きて、すぐに分かった事がある。それは、自分が軽い風邪をひいたと言うことだ。夜の間中、岩をつたって落ちる水の音を聞いていたので、外は雨かとも思ったが、そこには奇麗な朝焼けがあった。すぐにテントを飛び出し、洞窟の外へ出た。僕が見たのはなんとも言えない風景の向こうにはオレンジ色と紫色、空の青の混ざった景色。
その余韻に浸る事も無く、ロジャーが出発する事を皆に告げた。実は、昨日の時点で今日歩くコースを皆で決めると言う場面が合った。ひとつは、同じルートを丸一日かけて18キロ歩くコース。それは、ベネズエラガイアナ、ブラジルの3国の国境を目指すと言うもの。同じルートをそのまま往復する事と、距離が長い事が難点。もうひとつは、午前と午後に分けて散策すると言うもの。こっちの方が、いかにも楽そうだった。僕は、それぞれのメンバーの意見に折り合いをつけて、どちらかのコースを選択するのは困難な事になると思った。けれど、実際、そのコースの選択は一瞬で終わった。全員が、午前と午後の二回に分ける楽な方のコースを選んだからだった。いつも、遅れ気味でヒーヒー言っているマイコーオヤジの意見は分かるが、先先と歩いていて、いかにも力が有り余っていそうなリカルドまで、真っ先に楽な方のコースを選んだ。それが、気を使ってのものなのか、実はみんな以外とつかれているのか・・・
ともかく、朝食前のウォーキングの開始。
不思議な風景を持つロライマ山。2日目になる僕は、さらに細かなところまで見えるようになって来た。多くの変わった植物の生え方や、実はところどころに真っ黒でイボイボの肌を持った蛙がいる事。蛙は、跳ねる事も無く這うタイプの蛙で、大きさは2センチほどだろうか。真っ黒い岩の水がたまっているところでじっとしている。捕まえようとしても特に逃げるそぶりも無い。擬態を決め込んでいるのか、それとも初めから敵がいる事なんて考えた事も無かったのか。僕には分からないけれど。
最初についたところから、すぐ隣にそびえる、テーブルマウンテン、クケナン山を見る。山の下は、分厚い雲に覆われていて見えなかったため、このテーブルマウンテンのそびえ方は余計に異様に見えたかもしれない。雲の海の上に浮かぶ大きな空母のような雰囲気がある。仙人になった気分と言うのだろうか、天上界と言うものがどこかにあるとすれば、それは少なからずこれに似ているのではないかと僕は思った。
それと、今見ている景色と同じくらいに感動した事があるのだが、それは、ポーターが朝食をわざわざ僕達のところまで持ってきてくれたことである。どんなに奇麗な景色を見ていても、腹はへる。クケナン山を眺めながらの、ハムとチーズをはさんだ何の変哲も無い少し豪華なサンドイッチは、やはり、いつもと同じ味に感じるわけも無かった。
それから、洞窟の鍾乳洞のように侵食された岩を見に行く。つくづく、この山の地系には驚かされた。その後、ついたところは、小川の一部が丸く侵食された穴になって、紅茶色の水が溜まる所だった。その水はとても冷たくて、まるで山の湧き水のようだった。ここも、山の頂上付近なので、それに近いものはあるのかもしれないが。水の中には、縞模様と、真っ黒な2種類のヤゴがいた。トンボは見られなかったのだが。
水が溜まっていれば、やる事はひとつ。どこでもそれはビーチとかす。それが西洋のルールというものだ。みんなで水着に着替えて、ごつごつの黒い岩が侵食した穴の冷たい水の中で泳ぎ始める。水は冷たかったが、さっきから太陽がぎらぎらと照りだしたので、それは寒いと言うほどでもなかった。また、泳ぎ始めるというよりもそれはシャワー代わりでもあって、おのおの頭や体を洗うという大事な作業もある。みんな水質を悪くしないために石鹸は使わず。僕は、このトレッキング中、毎日川なんかで水浴びはしているけど、一度も石鹸は使わなかった。人間、慣れれば何でも出来るものだ。
僕は、それほどこのビーチ気分という奴が楽しいとは思わないので、さっさと陸に上がって服に着替えていた。そして、ロジャーに、さっきのような崖は後何回見れるかと言うことを聞いた。さっき崖を見た時は、少し曇っていて、十分な日光の下で僕はそれを見れなかったからだと言うこともある。雲ひとつ無い状態で、それを見たいと僕は思っていたからだ。そして、今、もう一度そこへ行けばそれは実現すると僕は思った。けれど、ロジャーの答えは、もう機会は無い、との事。その答えに満足でき中た僕は、他のみんながまだビーチを楽しんでいるので、さっきの場所にもう一度行って来ていいかと聞いた。すぐに帰ってくるから、と。さっきの崖は、今たっているところから見える範囲にあって、鍾乳洞のような岩があった場所をとばせば、すぐに行けそうで、それほど遠いとは感じなかった。そんな僕にロジャーも、OKを出してくれたので、僕は一人、一直線にさっきの崖を目指して歩き出した。
一人、歩き始めてから分かったのだが、ロライマ山はところどころに崖のような割れ目があり、時々はその下がどうなっているのか分からなくなっているほど深いところもあった。死のうと思えば簡単に死ねるな、と僕は少し怖くなった。さっき行った崖までの直線上には、そんな岩の割れ目が沢山あって、まっすぐ行くのは不可能だった。適当に迂回しながら、その崖を目指しながら僕はほとんど走るくらいの速さで岩を飛び越えながら進んでいた。帰り道、かなり高い確率で迷いそうな気もしたが、目印になりそうな大きな岩山の形だけを何とか覚えようとしながら、僕は先に進んだ。目印になりそうな岩といっても、ロライマ山の景色は本当に目印に出来そうなものが無かったのだが。「どうにかなるさ」僕は自分に言った。そしてここで引き返したら、僕はきっと後悔するだろうと思った。自分自身の臆病な気持ちに阻まれたくはなかった。僕は、今、この旅の最高の瞬間のひとつに間違いなくいるのだからと、僕は自分に言い聞かせた。
そんなことを考えながら、時々、苔の生えた岩で滑ったりしながら、20分ほどで僕はさっきの崖に着くことが出来た。太陽は僕の真上から崖を照らしていたが、ロライマ山の下は相変わらず分厚い雲に覆われていた。それでも、時々はその雲も切れて、下には奇麗な細い滝や緑色のジャングルが見え隠れしていた。満足は出来なかったが、ここまでもう一度やってきた自分には一定の満足は出来たので、僕は皆のいるところへ戻ろうとした。同じ道をたどれば大丈夫、そう自分にいいい聞かせて。
しかし、ロライマ山頂には大した道など無い。キャンプの周りには、岩の苔がはげて、トレースが出来ていたが、この辺にはそんなものは無かった。何より、自分自身、そういうものをたどってここまで来たわけではないのだ。時々ある大きな割れ目に遮られ、大きく迂回をしながら僕は、確信した。自分が迷子になっている事に。迷子というよりは、それは遭難といった言葉の方さえ当てはまる状態ではないか。ほんのわずかな時間、早歩きをしただけなのに、これほどまでまわりがわから無くなるなんて僕は思ってもいなかった。
精一杯考えて、水浴びをしていたのだから、小さな小川をたどって行けば、そこへ戻れるだろうと思った。そうして、わずかな望みをかけて適当な小川をさかのぼって行く事にした。しかし、周りの風景はどうも見覚えが無い。どうしようもない焦りを僕は感じていた。小さな頃、家族とはぐれて一人で迷子になった気持ちと似ている。なんとなく膀胱が締め付けられるような焦りの気持ちを全身で感じていた。そのうちに、小川は完全な湿原の中へ消えて行き、その先から来た可能性をかき消してくれたと共に、僕は来た道を引き返さざるをえなくなった。こういった状態の時に引き返すと言う事は、自分の中のかすかな自信や望みを自ら全否定すると言うことであり、僕の焦りは増すばかりだった。
そんな僕に、絶望的な気持ちをもたらしてくれたものがあった。霧だ。不安に包まれていた僕をさらに霧が包み始めていたのだ。ロライマ山頂の天気が変わりやすい事は知っていた。急に霧がかかり出す事も珍しい事ではないと、昨日からのわずかな経験でも気付いていた。でも、今、霧が僕を覆うことはないのに。僕を待ってくれているであろう、みんなの事を考えると申し訳ない気持ちで一杯になった。僕は死ぬ事はないだろうとは思ったが、一緒にここまで来た人たちの楽しい気持ちを汚すこと、迷惑をかける事に居た堪れない気持ちを感じた。今思えば、他人のことを気遣えるだけ、僕には余裕があったのかもしれない。でも、その時は必死だった。
5メートル先も見えない絶望的な状況の中、僕はそれでも闇雲に進んだ。足を止めれば、僕を不安が包み込むだろう。僕はそれが怖かった。闇雲に歩くべきではない事は分かっていたが、僕は止まる事が出来なかった。そんな時、不安をかき消そうと、不意に声が出た。「ロジャー!!」僕が、選べた言葉はそれだけだった。ガイドの名前。それをひたすら叫ぶ。涙声になりそうなのを必死に抑えながら、僕はただ声を上げていた。
そんな時、遠くで、「ヒューイ!」と誰かが口で笛を鳴らした音がした。その時始めて、僕は足を止める事が出来た。それは、僕が探していた人に他ならなかった。また、一緒にスティーブも来てくれていた。彼は今、風邪をひいていたはずだ。さっき、皆がビーチ気分に浸っている時も、一人だけ体を気遣って水に入っていなかったのに。ロジャーだけではなく、スティーブまで来てくれていた事、その彼の優しさに僕は静かに心を打たれていた。優しく僕を向かえてくれていたロジャーもまた、そうだった事は言うまでもないが。
二人の後について、例のビーチへ戻りながら、随分歩いた事を覚えている。きっと、変な方向に一人であるいていたのだろう。馬鹿な行動を取った僕を、みんなは普通に迎えてくれた。僕は、謝りながらも、申し訳なさを隠すように苦い顔をしながら笑ってみたりした。
キャンプに戻り、昼食をとった後は雨が降り出し、この日の午後は洞窟の中のキャンプですごすこととなった。のんびりとつまらない会話をする時間も、別に悪いわけではない。別に雨が降ったからといって、それほど残念な気持ちにはなるわけでもなかった。こういうものであると思っていた気持ちもあるが、なにより午前中の晴天に感謝していたからに他ならないだろう。
そのうちに日はくれた。夜になって気付いたのだが、岩や地面に小さな光る虫がいるようだ。蛍のような光だが、一粒の砂が光っているかのような小さな明かりで、その招待は小さなイモムシだった。色々な生き物がいるものだ。そういえば、この夜も、マイコーオヤジはテントの外で寝てくれた。ありがたいことに。そうして、次の日の下山はやはり寂しいものだと思いながら、湿った寝袋の中に入った。