嫌いな人

嫌いな人について書こうかな。
僕が嫌う人の定義はひとつ、「僕を嫌な気持ちにさせる人」。つまり、僕に危害を加える人や、理不尽に邪魔をする人。その中で、僕自身の経験的に嫌いな人には二通りある。ひとつは、根本的に自分と違う人。もうひとつは、自分と似ている人。
この二つのうち、根本的に違う人の事は無視できる。関わらなければ問題はない。大抵、忘れられる。厄介なのは後者だと思う。特に、自分よりもその人が、社会的立場として上にいるとか、能力的に優れているような気がしたりだとか、劣等感だとか、そういう気分を感じてしまうと、最悪。それに、自分の悪いところがその人を通して襲い掛かってくる感じもする。軽々とその人を、自分が見下して哀れむ事が出来るだけの器が自分にあれば、事情はそれほど悪化しない。結局は、自分の嫌いなところを他人と言う形で見せられているから、逃げられないのだと思う。自分が強くあれば、問題はないのだが、強くなりたくてもなれない自分、勝った気分になれない自分の裏返しがそこにあると感じる。
そんなときに、スケープゴートと言う言葉に行き着いた事がある。人間は、自分の嫌いな物、怖い物を他人に投影し、その他人を排除する事で安心しようとすると言う考え方らしい。(スケープゴーティズムと言う言い方もすると聞いたが、この言葉、ググっても出てこない。)僕の解釈では、この考え方では本質的に、僕は人を嫌いにならないと言う事が言えると思う。この考え方に正直、救われたことがある。僕は割りと、万人を愛したいと思う方だ。出来る限り人は嫌いたくない。それは、無益なことだからかもしれないし、ただ自分が嫌われたくないことの裏返しなのかもしれないけれど。
そして思うことがある、僕の嫌いな人と僕が、こんな出会い方をしていなかったら、ものすごくいい関係に慣れたのかもしれないと。その人は自分に似ていたり、全く違った観点を持っている人なのだから。そう思うと、かき消せない自分の感情は絶対に否定出来ないのだけれど、なんとなくもったいないような気もしてしまう。そして、僕は思う。嫌いなのは知らないから。知らないことは怖い事。わからないものは排除したいもの。つまりそれは、お化けと同じ。よく分からないから怖い。だから、思う。その人と分かりあえる時間が、その人を嫌う前にあれば、こんなにつまらない怨憎会苦と言う感情を抱かずに済んだのに、と。
ともかく僕の結論。嫌いな他人などいない。嫌いなのは弱い自分だけ。そもそも、本当は他人を嫌うほど、僕は他人に興味がない。自分に絶対的な自信や強さがあれば、嫌う必要のあるものは無い。そんな風に理想を考えながら、僕は時々現実を曖昧にして生きている。