Fly me to the Safari

ライオンと視線

なんか、2日前の「残酷な中国のサファリ」の話を改めて考えてたら、ふと思い出した事があり。
去年、ケニアのマサイマラに行った時に、野生のチーターが野生のガゼルを狩りする場面に遭遇したり、野生のライオンが野生のシマウマとかヌーとか食ってるのを見たりできたんよね。ものすごくワクワクして、写真もアホみたいに撮ってたんやけど、あれってどうなんかな。
野生とは言うものの、国立保護区と言う名のある意味観光地で、草原をジープでブイブイ走りながら、そういうのをひたすら探しまわるのな。動物園的な人口的なものはそこにはないんやけど、やってることは当然ながら大規模なサファリパークのような感じ。このサファリを動物園と合体させたのがサファリパークなのだろうから。

別に、本質的にはそんなにかわらへんような気もする。狩りとかが見たいと思って、安くないお金を払ってそこへ行くのだから。そんで、狩りとかが見れへんかった時に、ガイドが「追加料金を払ったら、今度こそ野生の狩りが見れるよ」って言うたら、多分払ったやろうしな。
なんか、これと、中国のサファリパークの事を一緒にして考えると、それが野生であるかとか、ショーであるかとか、なんとなく奇麗事を肯定するための口実のような気もする。結果だけを考えれば・・・
だって、もしも自分の本音が見たいと言うのなら、見たいもんは見たい。そこに嘘はない。けれど、そこにもろもろの事情とか背景とか、自分の倫理観とかそういう複雑なのがあって、それを見たいか見たくないかって言うところへたどり着く話。少なくとも僕はそう。本音がそれが面白いものだと思っている限り。  そこにある、本性的なものと、社会的な倫理観のようなものと、どちらも嘘じゃない。それが人間じゃないのかと僕は思う。
まあ、ショーとしての狩りと、野生の一場面としての狩りには、気持ちとして雲泥の差だとは思うけど。その差は、僕が少し考えて、それを見たいと思うか、思わないかの差になるけれど。(あれ、さっき言ったばかりの事と矛盾してる?)

さて、ちょっと、グロテスクな写真。これを撮ってたとき、怖くもあったり、色々考えたりしたけど、ライオンの食事風景を見れて、めちゃくちゃうれしかったって言う感情は本音。数日前のライオンの性行為の写真も、これの前日にマサイマラで撮った写真。いいもん見たわ。それは本音。