夏至過ぎて

昨夜、大阪での蒸し暑い夏至の夜は、黒服のスーツの中の僕に汗をかかせた。その夜、春に建て替えられたばかりのお寺はとても神々しく光っていた。本堂では夏至だと言うのにキャンドルが灯る事は無く、線香だけが一筋、ボクたちの祖父が迷わないようにと立てられていた。一昨日、祖父が病院のベットの上で亡くなった。大往生だったとボクは言いたい。
今日の告別式は、雨に見舞われた。畑の野菜や果物のことを心配していた祖父が降らせた雨だと誰もが思ったに違いない。棺の中の顔は本当に穏やかで、病室で苦しそうにしていた時とはまるで別人だ。安らかな顔に別れを告げる。やがて灰になった祖父の骨は、係員が慣れた手つきで小さく白い骨壷に納めていった。納骨の時には、空は土砂降りの雨を降らせた。この日を決して忘れられ無い様にするかのように。
ボクは、くだらないドラマで人が死んでも泣いたりするほど涙腺がゆるい。けれど、この日は泣かなかった。何故だろう。病室のベッドの上で荒い息をしながら、一呼吸毎に苦しそうにしていた祖父が、楽になれた事は突然の悲報ではなかったし、予感していた日が来ただけだとボクが思えたからだろうか。それでも、会いたいと思った時に、その人に会えないこの虚無な感じは確かだ。うまくは言えないけれど。祖父とは、一年に数回しか会えない間柄だったけど、もう会えないと思うと、胸が締め付けられるのは何故だろう。突きつけられた現実から目をそらすなと、静かにそれが訴えているのだろうか。
ボクは、庭で土をいじり、それに夢中になる時、祖父の血が自分の中に流れているのだろうと感じる時がある。次にそう感じるその時、ボクは何を思うだろう。そして、これから大阪にある祖父の畑は少なからず荒れて行くだろう。それを見た時、僕は祖父の死をようやく実感できるのかも知れない。そこに帰らない人の影をボクは感じるに違いないから。多分、ヒトは物質に過ぎない。けれど、ボクの心の中にいるヒトは、ボクの思い入れで出来ているに違いない。